父は毎日晩酌をしていた。
テーブルの定位置で椅子の上にあぐらをかき、テレビを見ながら晩酌をしていた。
テレビはほぼNHKで、ニュースか大河ドラマか映画が映っていた記憶がある。おおよそ子供としては興味がわかない番組ばかりだった。
その時父がビールを飲んでいた記憶はあまりない。日本酒を飲んでいた記憶もない。ただただウイスキーを飲んでいたという印象だけがある。銘柄はサントリーのREDだったと思う。
まずロックグラスにアイスペールから氷をたくさん入れ、そこにサントリーREDを注ぐ。チェイサー用のグラスも用意され、そこにも氷をたくさん入れる。
父はロックで作ったREDをまずゆっくりと口に含み、喉にウイスキーが通っていくことをじっくりと味わいながら、そのあとチェイサーを飲む。そんな飲み方だった。
子供の時に冷たそうなチェイサーの水が飲みたくなる時があった。どうやら父はREDのロックグラスに入っている溶けてきた氷をチェイサーの方に移していたようで、徐々にチェイサーの水が薄いウイスキーの味になっていくのだ。
僕は父が席を外した瞬間に一口水を含み、ひょっとしてこれはウイスキーの味ではないか、と子供ながらに感じて少し戸惑った記憶がある。この薄いウイスキーの味が初めて酒を知った瞬間だったのかもしれない。
そして子供だった僕も大人になり、酒を飲む事が出来る年齢になっていた。でも当時の僕は酒を飲む事にあまり積極的ではなかった。
それは父の飲み方に少しばかり不満があったのと、酒を飲んでしまった後、何も出来なくなることが嫌だった。
親父は普段は堅物で厳格な父親だったのだけど、酔っ払って機嫌がいいと陽気になり、機嫌が悪いと怒り出すという、少し面倒な酒飲みだった。よくドラマなんかに出てくるような手を上げたり暴れたりする酔い方ではないのだけど、なんとなく取っ付きにくいというか、まさに触らぬ神に祟りなし、そのままだった。
僕はご飯が済んだらすぐに自分の部屋に入って、ラジオを聴いたりハガキを書いたりしていた。
たまに頂き物のウイスキーがあって、ダルマ、ジョニ赤、ホワイトホースがある時の親父のテンションは普段と明らかに違っていた。ウイスキーという酒は、値段と旨さがほぼ比例する。高いウイスキーはやっぱり美味しいのだ。
たまに親父にホワイトホースを持っていくと「おぉ」と不器用に言うだけだったが、おそらく心の中では喜んでいたに違いない。
ホワイトホースという酒はスコッチ・ウイスキーのブレンデッドで当時3000円ぐらいか、もっとしていたかもしれない。それが今は近所のスーパーで800円台で買えてしまうのだ。
もうホワイトホースに何が起こったのかは分からないのだけど、酒の安売りコーナーの常連としてホワイトホースが君臨しているのである。まさかこんな日がやってくるとは、と思いながら僕もホワイトホースの炭酸割りで晩酌している。
今は酒をロックで飲むという事はまず無くなった。焼酎も泡盛も水割りか炭酸割り、ウイスキーも炭酸割り、日本酒も場合によっては氷を入れたりする。
割って飲む方が少しずつアルコールがカラダの中に入っていくので、肝臓をいたわり、飲み過ぎ防止にもなり、何より美味しく飲むことができる感じがする。
親父はウイスキーをロックで作り、ウイスキーが喉を流れていくあの熱っつい感じを堪能しつつ、そのあと冷たい水を流し込み、そして体内で割るという形態だった。たまにならまだしも、それが毎日だと完全にハードコアの世界である。でも親父にとってはそれが普通だった。
あと親父はカマンベールチーズがとても好きだった。スコッチをロックで飲みながらカマンベールで晩酌するなんて70過ぎのお爺ちゃんとしては、なかなか洒落ていたのかもしれない。そんな僕もチーズだけは欠かすことなく晩酌用に常備している。
そしてお墓参りの時には、必ずウイスキーとカマンベールを用意して墓前に供えるのが母の決まり事になっている。墓参りの帰りに母はそのカマンベールを僕に渡してくれる。「一緒に飲むことができれば良かったのにね」と何度も母は言う。僕も「そうだね」と同じような返事をいつもする。
親父が入院していた頃、今何が一番したい?と聞いたら「ウイスキーが飲みたい」と小さな声で言った親父が今でも忘れられない。そして今日もホワイトホースのソーダ割りとカマンベールチーズで僕は晩酌をする。
ホワイトホースを飲む時は親父のこと、REDのこと、薄いウイスキーの味のするチェイサーのことも必ず想い出す。週末にはホワイトホースをロックで飲んでみようと思った。
よろしければこちらもどうぞ