本は読み終わったら、なぜすぐに忘れるのだろう。
読んだ本のタイトルは大体覚えている。読んだ本か、読んでない本かも分かる。でも読み終わった本の内容となると忘れる。
たまに本を読んでいる時に少しページを戻ったりすると、えっこんな文章あったっけ、となる。昨日読んだページなのにもう忘れている。怖い。
読む本は海外ミステリ。読み終わった瞬間、記憶から猛スピードで遠ざかっていく。
先日もアリー・レナルズの「寒慄【かんりつ】 (ハヤカワ・ミステリ 1968)」を読了した。ポケミスは今でも刊行されており、毎月読み続けている。
読了時の読書メモにはこう書いた。
頭の中が完全に、冬の雪山、スノーボード、ハーフパイプ、欧州プロ選手、恋愛、転倒、怪我、吹雪、氷河、クレバス等で満たされていくサスペンスである。脳内はずっとホワイトアウト状態のまま。加えて誰にも感情移入出来ないため、余計にぞくぞくしながらページターナーとなっていく。
十年ぶりに再開した元スノーボーダー達。標高三千五百メートル地点のホステルで次々と起きる不可解な出来事。そこに十年前のパートが挿入され過去と現在がリンクされる。冬の雪山での孤立感、十年ぶりに会うアスリート達の心理描写、探り合い、駆け引き、そして狂気。
そうそう。あの冬山でのサスペンス描写を思い出す。でも結末の詳細だったり、登場人物たちの細部の伏線回収的な振る舞いは思い出す事が出来ない。
あとウイリアム・アイリッシュの「幻の女」も新訳で読み直した。その時自分の読書メモにはこう書いた。
「量」の読書ではなく「質」の読書を心掛けようと改めて決意する名作である。丁寧に読み進めながら、じっくりと味わっていく古典である。月に何冊読んだとか、ほんとどうでもよくなってくる。とにかく作者と対峙しながら、書き手の仕掛けや工夫を見落とさないよう読んでいく。
新訳を読み終えたら以前の訳で再読したくなる。稲葉氏も黒原氏も本当に素晴らしい名訳だと感じる。文章・文体が実に詩的であり抒情的であり、これが小説なんだと思う。加えて、濃厚なサスペンスフルな展開が不朽の名作として、ずっと読み継がれている所以ではないか。傑作。
自分のメモだが、なんだか妙に熱いメモだ。そして内容に触れていない。
でも結末はどうだったんだっけ?男のアリバイを証明する唯一の目撃者「幻の女」を探していくストーリー。犯人も明確に覚えている。でも最後の詰めの部分はどうだったっけ…。
基本的にこんな感じである。
もちろん再読すればいいのだけど、やっぱり未読本のほうに手が伸びる。
ただ未読の海外ミステリは読み始めるまでが大変である。腰が重くなる。大好きな海外ミステリなのに億劫である。不思議だ。
海外ミステリは大抵よくわからない描写から始まる。謎すぎる冒頭。いや、もっと導入部は分かりやすくしてくれよ、と思う。
最初の5ページぐらいでスッと入っていけたら、30ページ、50ページとかなり順調に読み進めることが出来る。
ただ章が長いと、どこで切ったらいいか分からなくなる。本は通勤時間に読むため、章が短いほうが一息つけて読みやすい。章が長いと、一体この章はなんだったっけとなったりする。
でも小説なんて飛ばし飛ばし読んだって構わないのだ。途中読むのがつらかったら読むのをやめればいい。それが忘れてしまう原因か。
内容を忘れてしまっていても、印象的な場面は心に残っているものである。たとえ結末やディテールは忘れてしまっても、ディック・フランシスの「度胸」は神経戦・心理戦によるキリキリする緊張感のある傑作だったなぁと思い出せれば、それはそれでいいのだ。
もちろんディテールは思い出せない。
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