Small Things

感じたこと、考えたこと

読み始めるまでに時間がかかる本との接し方

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「死者の国」という本を買った。

帯によると『クリムゾン・リバー』の著者グランジェによるサスペンスらしい。「らしい」という事はまだ読み始めていない。ハヤカワのポケミスなのに2段組みで773ページもあり、値段も税込み3,300円というヘビー級である。

本によっては、いざ買ってはみたものの、なかなか読み始めることができない本がある。珈琲を飲みながらでも読み進めることで、どんどん面白くなっていき、ページをめくる手も速くなっていくのだと思う。でも最初のページをめくって読み始めることが、何故か出来ない本があるのだ。

ただスッと読み始められる本もある。「死者の国」と一緒に阿川佐和子の「老人初心者の覚悟」という本も買った。こちらはすっと読み始めることができた。阿川佐和子のエッセイは一瞬にして奥に入っていくことができるイメージが自分の中にあったのかもしれない。すすっと最初のページをめくり、始めのタイトルを読み終えることができる。なにげない日常について書かれた阿川氏のエッセイは本当に面白い。

それと図書館で向田邦子の全集を借りてきた。第五巻めから7冊にわたるエッセイが始まっていくのだが、なぜかいきなり第八巻の「霊長類ヒト科動物図鑑」から読み始めた。これもまたすっと入っていく。向田邦子のエッセイはタイトルとその書き出しがまったく一致しないことが多い。「豆腐」というタイトルの話では「古いカレンダーをはずして、新しいものに掛け替える。」という文章から始まる。とても分かりやすい言葉で始まるのだが、エッセイのタイトルとその始まり方にかなりの距離がある。だから結末を急ぎたくなる。どういう展開になるんだろうとページをめくるスピードが速くなる。

もちろん小説とエッセイとは違う。小説は作者の意図を感じ取りながらじっくりと読み進めていくものだ。果たして今回の「死者の国」のようなサスペンス、エンタメ小説までじっくりと時間を掛けて、スローリーディングをしていくべきかどうかは自分でもよくわかっていない。「小説ってストーリー自体はあまり重要ではありませんから」という、どなたかの言葉が印象に残っている。果たしてサスペンスやSF、エンタメ小説でもそうなのだろうか。

平野啓一郎の「本の読み方 スロー・リーディングの実践 」の中で、本と言うのは「作者の意図」を考えながら読む方法が紹介されており、この本自体そこに重きが置かれている。小説でもエッセイでも「こう読んでもらいたい」という「作者の意図」は必ずあるという。特に小説には作者が何が言いたいのかを我々読者は正確に理解していかなければならない、という一種強迫観念のような考え方に支配されるため、小説はエッセイよりは確実に読み始めるまでの時間がかかるような感じがしている。それも結局は言い訳なのだが。

たとえばTVアニメを見ていても、そのとっつきやすさと、とっつきにくさによって奥に入り込んでいくスピードに差が出てくる。おそらく第一話では意図的に訳が分からないよう、様々な謎を仕込んでいる序章なのだと思うが、それに対して「すごい」とはなかなか感じない。やはり第一話からぐっと入り込んでいけるのは、作者の意図がある程度理解でき、さらに「奥に」そして「深く」感じ取ることができたアニメである。このアニメをもっともっと理解したいと第一話から思えるアニメはやっぱり最後まで見続ける。第一話を敢えて難しくつくり、よくわからないまま終わってしまうと深く追求していこうという意欲がなくなってくる。完全に話がそれた。

でも本を読むという事は楽しいのだ。すすっと読んだとしても、じっくり読んだとしても、作者はここで何を書きたかったのか、何を表現したかったのかを考え、探っていくことが読書本来の目的なのであり、それを楽しく感じるかどうかである。結局読みやすさや、読みにくさはあまり関係ないのかもしれないが、少し距離のある本は「よし、読むぞ」と決めて、苦めの珈琲を飲みながらまずは30分間読む。そこでどうなるかだ。「死者の国」は予定では今日から「よし、読むぞ」と宣言してから読み始める予定である。まずは苦めの珈琲を買ってくる必要がある。

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