Small Things

感じたこと、考えたこと

日記をつけるということ

1月31日から日記をつけることにした。

中途半端な日付から始めることとなった。本当は元日からつけ始めたかったのだけど、気に入った日記帳がみつからないという理由だけで、あっという間にひと月が過ぎてしまったのだ。しかしその原因が「日記帳」なのである。これはいつも形から入るという良くない癖が出てしまい、本当に紙の日記帳を探していたのである。ブログの公開設定を「自分のみ」にして書く日記ではなく、紙に万年筆で書く日記をつけるのである。それも突然。

今まで日記を書いたという記憶は無い。実家に行けば子供の頃の絵日記が見つかるのかもしれないが、そもそも日記を書くという発想が子供のころからあまりなかった。日記は何のためにつけるのか、この問いに対して答えを見つけようともせずに過ごしてきた。自分には関係のない行動形態であり、日記というものを意識すらすることがなかった。

ブログを毎日書き続けてはいるが、その先には何があるわけでもなく、基本的に何も起こらない。毎日書き続けたからと言っても、何も生まれてこないのがブログである。ただ公開している以上は、いろいろな要素に気を遣いながら書かなければいけなくなる。プライベートなことは書けず、自分にだけ分かればいいことも書き記すことができない。

日記と言うのは自分の記録のために書くものだ。自分のことを一番知っている「私」が自分のことに対してつけるのである。それは人に見せる必要もない。一日の終わりに自分と向き合って自分のことを書く。そして一日を整理していく。 

ただ人生の半分をとうに過ぎた今から日記をつけ始めても意味があるのだろうか。これからも平凡な日常の中に、少しでも楽しいことがあるのであればまだいいのだけど、それが続いていくかどうかはわからない。それでも日記をつける意味はあるのだろうか。そしてつけた日記をあとから振り返ることがあるのだろうか。その答えがまだ見い出せてはいないものの、思い立ったらつけはじめればいいのだ。

日記帳に関しては「ほぼ日5年手帳」がいいかなと思ったものの、とても入手しづらく諦めざるを得なかった。アピカやミドリの5年連用日記も考えたが、毎日(年) と(曜日)を書くというは少しわずらわしい感じもする。日記帳を開いてすぐに書き始められる方がいい。博文館の「懐中日記」も考えたが、日記も使い慣れている万年筆で書きたいため、裏抜け、裏写りが気になってしまいそうである。もうこんなに迷うのであれば大学ノートでもいいのかなと、半ば日記帳につてはどうでもよくなってきている。

まずはつけてみないことには始まらない。実は手帳にメモ程度には日記とおぼしきものを書き始めているのだ。これはある意味予行演習であって本番に備えた助走みたいなものである。日記に何を書くかに決まりなんかない。だから「どこどこへ行った」「なになにをした」という文になる。ただ「こう思った」「こんな感じだった」と感情をあらわすことはこの助走ではまだ書いていない。でも印象や感情は書いた方がいいのだろう。ただ基本的におおざっぱに書きたい。敢えておおざっぱがいい。2,3行ささっと書いて終わりにしたい。

実は日記を書くことで少しだけ期待していることがある。それは日記からなにかが生まれるのではないか、ということだ。ある日に「竹輪そば」と書かれている。そこから今度はブログで竹輪そばのことについて書いてみようかとなるかもしれない。ある日には「俺のイタリアン 飲み放題 シャンパンも」と書いてある。書いておかなければ「竹輪そば」も「俺のイタリアン」のことも思い出す機会が少ない。でもその一文がブログでの題材になるのではないだろうか。

いや、それってGoogle Keepにメモしとけばいいんじゃない、というのもわかる。でも寝る前に1日を振り返り、その日に起きたちょっとしたことや、興味のあったことを書き留めておく。その日記から何かが生まれてくればいいなと思う。しかしブログを書いてもその先には何もない。このジレンマを楽しむしかないという実にハードコアな趣味がブログなのだと感じている。

結局日記は大学ノートにつけることにした。