何度も何度も読み返している本がある。
それは堀井憲一郎著「いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)」という新書だが、Amazonのマーケットプレイスで現在5000~9800円という高値で揺れ動いている。異常である。電子化がされていない事もあり、今読むには図書館か高額な中古本を入手するしかない。
そこまでの本なのか、という疑問もあると思うが、自分は何度も読み返しており、読むたびにその都度得るものが必ずある。
堀井氏の文章はその文体に慣れていないと、その独特なノリに戸惑う人がいるかもしれない("ライターの評価は、文章の美しさで決まるものではない[P.15]")。ただ、文章はサービスであり、読んだ人を楽しませるためにのみ文章は存在する、という堀井氏の考え方に共感してしまったら最後、もうこの本を常に持ち歩き、時間があればページをパラパラとめくってしまうのだ。ほんと電子版が無いのが残念でならない。
ここでいうサービスとは
サービスとは「読んでいる人のことを、いつも考えていること」である。
言ってしまえば、それだけのことだ。
文章を書くときに、読む人のことをいつも考えて、書く。
本当にそこさえ押さえておけば、あと気にするのは細かいことだけだ。
もう一度、言う。
「読んでいる人のことをいつも考えて書けばいい」
これがすべてだ。
[P.16]
上記引用は以前書いた記事の繰り返しになるが、この一文がすべてであり、これが読むたびに刺さってくる。もちろん趣味のブログであり仕事でもなんでもないのだけど、自分しか読まない日記とは異なるため、この視点は常に忘れないようにしている。
文章を書くときは、読む人の立場で考える。
一般の読者は、まず間違いなく「不親切で、不熱心な読者」である。
読む人の立場で考えるということは、「『あまり、興味ないんだけど』とおもって読み始めた人」をどう引き込んできて、本気で読ませるか、その方法を考えることになる。
[P.48]
この一節も手厳しいが、ここから文章書きとしての資質に触れてくる。ようは文章書きにとって、熱心でない読者をこちらに振り向かせる工夫が好きかどうかが大切であり、工夫をすることが嫌いであれば「まず文章書きを目指さないほうがいい。多くの人に読んでもらうことはあきらめたほうがいいとおもう。[P.49]」と追い詰めてくる。何度もこの部分を読み返して自らを改めるばかりである。
そして「「自分が書いたものをそのまま受け入れて欲しい」という気持ちが強い人は、文章を書いてもしかたがない、ということだ。[P.49]」という一文が強烈であり、しばらく自分の過去記事をボーっと眺めてしまうのだ。自分勝手な自己表現を目的とした文章は、基本的に他人に読んでもらえるものにはならない、と考えるしかないが、これはほんと背筋が寒くなる話である。
そして「まず、結論を先に書け。[P.114]」「タイトルに結論を入れろ[P.119]」「時間軸に沿って書くな[P.121]」「読み手の立場になって書くこと[P.123]等、とにかく読んでうなづき、読んで自分の過去の記事を読みなおし、「ぜんぜん出来てないな」とその文章法の極意に奮い立たされながらも、徐々に落ち込んでいくのである。
ただそれは自分にできていないもどかしさであり、読んでも読んでもなかなか辿りつけない情けなさでもあるが、何度も「いますぐ書け、の文章法」を読むことで、何か一つでも変わっていくのではないか、と思い続けて何十回めかの再読をするのである。まずはいつでも、どんな時でも読むことができ、確認ができるように、早急に電子書籍での販売を筑摩書房にはお願いしたい。